2012年8月13日月曜日

無限の可能性

 無限はそのまま「限り無い」という意味であるが、この世に限りないものなど無い。せいぜい「多くの」「膨大な」「数え切れないほどの」「無限にも等しいほどの」という方が正しい。

 数学などの割り切れない数に関してはその計算が永遠に続くというものもあるが、数学には無限に続くものがあっても、数を物に置き換えると、割っていくうちに最小単位である原子に到達していづれは割り切れなくなる。

 おおよそこの世で無限と表現して構わないと思われるものは宇宙であり、人類がその全容を把握するするまでに滅びれば観測機器で把握できる範囲でしか無く、太陽系や銀河系を飛び出せる科学文明を手に入れたとしても時間と距離が問題になる。それこそワームホールでもなければ観測できたデータを地球に送信しても天体の距離(光年)から考えれば近いものでも数光年。遠いものでも131億2千万光年と、人類という種の寿命を遥かに超えるほどの距離である。

 可能性に関しては表現方法としての比喩であって、例えば子供たちに「君たちには無限の可能性がある」などと言っても、将来=子供の職業であり、職業の数が無限に等しいということはない。一般的には電話帳に載っている程度の職業があり、電話帳に載っていない職業を含めてもやはり無限ではないが、起業するという可能性を考えればその選択肢は膨大なものになるかもしれない。
 同時に、無限の可能性があったとしても、無限に等しい職業を調べたり実際に体験することは不可能に等しいが、インターネットを使用して大抵のことを調べられる現代では、昔に比べて遥かに多くの職業を知ることができる。ただ、知識欲というものは疑問が無ければ生じることは無く、知識欲が無ければ疑問にも至らない。

 子供の可能性を伸ばすために勉強に時間を費やしてどんな職業にもなれるようにしておく大人は多いと思うが、逆を言えば、子供に「将来何になりたい?」という質問を投げかけるときには、それに成るために必要な勉強や必要な資格とそれをするために必要なことを教えるべきではなかろうか。

 なりたい将来の自分像というものは子供の頃には誰しもが描くものであるが、子供の夢を壊したくないから大変だと思わせたくないという考えでは子供に助言すらしてやれずただの夢として終わる。

 逆にそれでもなりたいというのであれば、親は少なくともどの教科や分野を勉強するべきか助言をする必要があり、子供には遊びも大事だけど、せいぜい必須科目くらいは強化しその職業に就けるための本を与えて興味を持たせなければ子供である時間というのは長くは無いのだから。

 そういう意味で親は子供とのコミュニケーションを怠っては子供のためにもならないし、親が馬鹿だと子供の可能性も狭まってしまう。子供に割く時間が無い大人であれば、逆にその調べ方を教えてあとは必要なときに必要な問答を行なうという手もあるが、何になりたいという興味を示す切欠くらいは欲しい。
 職業の中には、子供のある一定の年齢までに経験させないとそれが大人になってからできなくなる(努力すれば可能性はゼロではないが、子供よりも大人は色々と適応能力が落ちる)ものもある。

 私の親はソッチ方面に全く無頓着で子供である私に導きや知識を与えることが全く無かったし、必要な時期に必要な促しを全くしなかったので大人になってから 色々と後悔もしているし、逆に大人になってからの方が知識欲全快で、気になるものは片っ端からその概要を吸収。 一体この熊野郎は何屋になりたいんだという感じの何でも屋になってしまっただけで、死ぬまでやりたいことが山積しているし、死ぬまで自分の可能性を試してみたいとも思っている。

 人間の寿命が80年かそこらであるからして、実際には一人の人間が得られる知識や体験、技能というものには限界があるし、それこそ無限の遣り残しというものはあるだろうと思った。
 と、同時に何にもなりたくないし、何もしたくないという人間は何にもなれず、ただ消費するだけの生産性の無い人間になるのだろうと思う。

 今の自分に納得しているか。今の自分の能力に満足しているか。いまやりたいことは何で、それに必要な知識や技能は何か。自分に不足しているものは何か。そしていま自分が何をすべきか。気付きに至ることが重要で、あとは努力と根性。

 でも、一番大事なのは生きていることで、自分の命を守る手段や知識が無いと、もしもの場合に何もできなかったりするんだよね。人が死ぬ可能性は、病気、怪我、事故、災害、殺人を問わず、その可能性は無限に等しいかもしれない。だから将来何になるという目標や努力とともに、それを回避するための知識が無いとその努力も徒労に終わってしまう。それこそ、人間の一生というのは、自信の行動と外部からの危険の可能性に無限の分岐点があるとも言えるのかもしれない。

2012年8月8日水曜日

ラジオとは何か

ラジオとは何か。

 radioという単語そのものを検索しても出るのはラジオ放送やラジオの受信機、ラジオ放送、ラジオ放送局そのものの事ばかり。

 そもそもラジオという単語そのものを正しく 翻訳すると「放射」を表し、放送を受信する装置。つまりポータブルラジオやポケットラジオ。カーラジオなどの受信装置ではなく、放送などを電波で放射する行為に相当する。

goo辞書では radio の項目の次のページにこうある
  1.  一点からまっすぐ四方八方へ出すこと。また、四方八方へひろがり出ること。「中心から―する車の輻(や)」
     
  2. 物体が電磁波または粒子線の形でエネルギーを放出すること。また、その電磁波または粒子線。輻射(ふくしゃ)。 
 私がこの疑問に遭遇したのは、10年くらい昔のこと。 何故、放射性物質の取り扱いの試験で「ラジオアイソトープ」という単語にラジオという単語を含んでいるのかという点。
 放射性と放射。電波の放射。つまり放送の電波を放射すること。これがラジオの本来の意味であると認識したことから始まる。

 当然、私は幼少の頃からラジオ馬鹿で、学研の科学でゲルマラジオを手にしてから電子ブロックや、その延長上の電子工作にどっぷりな時期があって、ラジオは電波として空中を伝播する高周波信号をダイオードという一方向にしか電気を通さない電子部品で音声信号に変換し、それをイヤホンなどで聞くという認識はあった。
 そして、ラジオの重要な要素は電波が第一で、受信が第二で、同調が第三で、検波が第四で、信号を音に変えることが第五の要素という認識がある。

 第一の要素「電波」は、僅かでも届いていれば1(有)で、全く届いていなければ0(無)である。
 第二の要素「受信」は、放射された放送をどれだけ効率よくキャッチすること。
 第三の要素「同調」は、ラジオ受信機のチューナーできっちり放送局の周波数に合わせること。
 第四の要素「検波」は、高周波信号を音声信号に復調すること。つまり電波を音声に戻す。
 第五の要素「信号を音に」は、イヤホンなどで音声信号を音に戻して聴くこと。

 ラジオ放送をラジオ受信機で受信するためにはまず、電波が届いていること。それはどんなに弱くても届いていれば放送を受信できる可能性がある。
 次に、弱い電波をより強い電波として捉えるためにはアンテナの性能がモノを言う。基本的に大きさ(長さ)でカバーする方法と、アンテナの構造(形状)により効果的にキャッチする方法。そして捕まえた電波を増幅する方法がある。

 この2点が最も重要で、更に他の放送局と周波数が被っていたりするとアンテナの向き(または指向性の強いアンテナ)で目的の電波をキャッチする方法および、第四の要素の検波で目的の信号から必要な電波をフィルタリングする同期検波などが必要になってくる。基本的に同調回路は周波数を目的のものに合わせるための装置であり、目的の電波が拾えていればそれで問題は無いのだが、今のラジオ受信機はその殆どがラジオの中に内蔵されたコイル(バーアンテナ)と呼ばれるものでAM放送(中波:MW)をキャッチする。

 一つ前に言ったアンテナの大きさ・構造・増幅に関しては、ラジオ受信機に最初から備わっているアンテナに対して外部アンテナ経由。または外部アンテナでキャッチした電波をアンプなどで増幅したものを本体のアンテナに接続または電気的な接続によって流し込む方法。

  ラジオにの主流派は一般にAM放送とFM放送があって、中波であるAM放送(kHz)と超短波であるFM放送(MHz)があって、AM放送は先に書いたとおり内蔵バーアンテナ(コンポは付属のループアンテナ)で受信し、FM放送はロッドアンテナ(コンポは付属のワイヤーアンテナ)で行なう。

 AM放送は内蔵バーアンテナ(本体に対して水平に内蔵)を放送局に対して水平に向ける。FM放送はロッドアンテナの場合、長さ、傾き、角度などを調整して最適な方向に変える。
 コンポの場合、AMのループアンテナは輪っかを正面と見た場合、左右方向に指向性があり、左右どちらかの方向に放送局が向くように輪を水平にクルっと回して合わせる。FMの場合はT字または逆L字のワイヤーアンテナである場合、放送局に対して水平に張る。

 AM放送のアンテナの工夫は、長い銅線を水平に長く(十数m。または僻地では数十m)張り、片方をラジオへ縦に巻きつけてからアースに流す方法と、ループアンテナを作って事前に高周波信号をキャッチと同時に目的の周波数で共振させて増幅する方法とがある。更に増幅された高周波信号をアンプで増幅するものもある。アンプで増幅しないものをパッシブ。アンプで増幅したものをアクティブと呼び、これはアンプなしスピーカーとアンプ有りスピーカーの呼び方でも同じで、パッシブスピーカー。アクティブスピーカーと呼ぶ。

 FM放送の場合、T字に張った180cm程度のワイヤーアンテナをロッドアンテナに繋ぐか、適当な2m程度の銅線を窓の辺りに適当に張るだけでもある程度の効果がある。

 ついでに短波(SW)の場合は、垂直に2~3m張るか窓から(非金属の棒を使って壁から離して)垂らす。他にはシールドループというものがあるが、基本的に私が実証実験をしていないのでここでは説明を省略する。


 最後に、インターネットラジオって、ネットワーク回線を使って網の目のようにネット通信で情報を放射しているんだろうけど電波を使っていない。または電波を必要としてないものだからラジオと呼ぶには非常に抵抗を感じる。個人的にだけどね。

危険とは何か

危険とは可能性のこと。危ない可能性。怪我や生命の危機の可能性。事故の可能性。悪いことが起きる。または蒙る可能性。危ない状態または危ないという状況。それに関わることによって何らかの悪い影響を受ける可能性。

 この危険は看板や何らかの表示で危険と書かれている「分かっている」ものと、危険が「あるかもしれないという可能性がある」ものと、 明らかにそれをすること。または立ち入ったり触れることによって「危険を蒙る」ことに大別できると思う。

 確実に危ないものとしては、近寄ることで直ちに怪我や健康被害。最悪の場合は死ぬ可能性がある可能性の状況や場所。そして物質に近寄ること。またはその空間に居ることで受ける。 安全措置が施されていない場所や、それそのものが危ない場合が入る。
 分かりやすく言えば普段着で原子炉に近づいたり、火山の火口に近づいたり、落ちたら死ぬような高さの場所で綱渡りすること。

 可能性としての危険は、その場に立ち入ったり、その物体を正しく使用または理解しないことによって危険なことが起きるまたは発生すること。
 分かりやすく言うと、有毒ガスが発生しやすい場所を長時間うろついたり、崩れそうな建物に入ったり、腐った橋を渡ったり、滑りやすい斜面を大した装備も経験も持たずに徘徊することが入る。

 そして、 もう2つほどある。それは気付いていない危険や、ヒューマンエラーによって起きる危険。

 気付いていない危険にはこういったものがある。

 いつも安全にそれを使っていた。でも、毎年事故が起きたりする。でも、それを危険ではないものに変えたり、危険が無いように使用することをしない状態によって起きる危険の可能性や、その危険そのものに気付かずにいまは安全だからと使用し、この先に何らかの事故や怪我を発生させる可能性がある状態。

 もうひとつは慣れによる、それが危険であるという自覚が抜け落ちて漫然とそれを行なったり使用し続けたりする状況または心理的な状態。或いは、想定されるリスクを軽く見積もって、いざ、事故が起きてしまったときに取り返しの付かない状態に陥ってしまう。

 上記にヒューマンエラーは含まれるが、真のヒューマンエラーというのは、分かっていてそれができなかったことによって発生してしまう状況が最も大きい。
 また、その人の考え方や自覚によってそのレベルも様々で、同じ状況。同じもの。同じ状態であっても、その時と人によって起きたり起きなかったりするもの。簡単に言えば、「あれほど分かりきった事なのにどうしてしなかったんだろう」という状態。事例で言えば福島原発の冷却用に用意されていた予備電源がそう。対策していない。想定していない。壊れたけどいますぐ津波が来るはずもないだろう。という考えや集団としての機能の劣化によるもの。

  そういえばまだある。無自覚の危険と、故意の危険。前者は車が良い事例。マイカーは便利であるが、乗る人が危険に無自覚なら事故を起したり、不可抗力の事故に巻き込まれやすい。後者はそれが危険な行為であることを知りながら暴走運転をすればそれは危険な行為を行なってしまう。

 よく考えたらまだあった。無知の危険。つまり、それが危険であることを知らないという状態。これには2つの状況がある。知らされていない場合と、調べればそれが危険であることが間違いないのに知ろうともしないこと。または、疑ってそれを警戒するか、何も考えずに「いつも大丈夫だから」とそれをしてしまう 行為。

 これは自転車がそれを表現するために一番良い事例だ。自転車には免許が要らないが、あれは乗って運転した時点で車両に相当するもの(軽車両)だから、道路交通法が適用される。基本的に車道の路側寄りを左側通行で、1列で走り並んで走行してはならない。夜はライトを点灯。傘をさして乗ってはいけない。ヘッドホンなどで周りの音を遮断して走行してはならない。時速20キロ程度で走行。止まれの標識のある場所では一時停止。信号も守らなくてはならない。 歩行者専用の場所では降りて押さなければならない。

 さて、この中でいま一番熱いのは次に挙げるものだ。

 既に調べれば分かること(既知の危険)を除外(それを確認するうえで改めて聞くという行為も行なわれる場合もある)し、それを踏まえたうえで他にどのような危険があるか。その危険が現実のものになった場合、どれほどの危険に相当するのか。そして、その危険を防ぐ上でどのようなことをしたら良いのか。そして最初の状況と、対策を行なったうえでのリスクの比較をすること。これをリスクアセスメントという。

  このリスクアセスメントであるが、実際にその業務や行為に参加する人が率先して行なう場合と、保険会社が事故率の低下を狙って独自に保険加入者に対して行なうことがある。保険会社としても事故が多ければ加入者に対してお金を払わなければならない。その額が多ければ多いほど保険会社にとっては損失となる。つまりそういうこと。

 一番大事なのは、いちいち表示しなければそれが危険であると知ることが可能な状態や状況ではなく、自分自身がその危険に対して敏感になることが最も望ましいのだが、気を抜けばプロでも危険に遭遇することもあるし、事故としてそれが結果となってしまうこともある。

 まず、危険な目に遭わない方法としては、知ること。考えること。観察すること。感じること。疑うこと。


何か

何かという言葉はよく口にしたり目にすることも多いが、改めて調べてみると普段使ったり、使うには相手を選ぶような言葉でもある。
 また、物事がはっきりしない状態や、そのものが不確定な場合に用いる代名詞だったり副詞だったりする。そのものがそのありのままにある状態を上手く表現できなかったり、言葉で表せない。または曖昧な表現とも言えるし、その人の感じ方とも言える。

 こうして改めて「何か」という言葉を考えてみると、人間に限らず世の中のすべてが「何か」という単語に置き換えることができるのかもしれない。
 確定された事象でさえ、それが100%確定されていなければ「何か」を含んでいるとさえも言える。 例えば鉄と金では金属という枠組みの中に置くことができる物質ではあるが、最近見つかったとされる物質に重さを与える粒子の存在も確定されていなければ「何か」が含まれているのである。

 見た目や物質の特性や元素記号での区分としての鉄と金の違いはあっても、それがどうして鉄と金であると言い切れるのかと言えば何かで測定したり、電気抵抗を調べたり、舐めたり、齧ってみたり、硬さを調べてみたりと色々な方法があるが、 それは触れることによってはじめて可能であり、触れることができなかったり、証明できないものであったり、仮説であったり、推測であったり、特定が困難な場合、そこにあるのは「何か鉄のようなものと金のようなもの」と言える。もっと分かりやすく言えばガラス、ダイヤモンド、水晶、トルマリン、ジルコニアでもいい。全く同じ形状にカットされ、色が透明であることまで同じ。大きなショーケースの中に入っていてずらりと並んでいる。これをショーケースの外から見分けられる人間はとても少ないと思う。

 誰も住んでいない建物に人影が見えたとしよう。複数で行った時に見える人と見えない人が居れば、それは既に「何か」である。私たちが普通に生活している中でも、その「何か」 は常に存在する。
 考えであったり、物質であったり、存在であったり、感情であったり、事象であったり、目に見えてはいるものの、それに気付く人と気付かない人が居れば、気付いた人にはそれが何であるか分かっても、気付かない人にとっては気付くまで「何か」があるのだ。シシャモだと思っていたものが実は類似品だったり、ホウレンソウでさえそうだ。マクドナルドのフィレオフィッシュでさえ、その白身魚が何であるか知る人は関係者ぐらいのものだろう。

 私の馴染みの野鳥であるカラスでさえ、分類的に鳥綱スズメ目カラス科カラス属という枠組みでそれを表現できても、彼らの生態というものは一般的に「嫌われ者」としての認識しかない。
 でも、その役割や性格。周りのほかの生き物との連携を目の前にしているオラでさえ、まだ「何か」が分かっていないのである。スズメだってそうだ。 

 この両者でさえ、知られていることはほんの一部に過ぎない。物理的な解析は散々行なわれているにしても、それは物体や存在としての証明が済んでいるだけで、彼らがどのような考え方をして、人間とどのように関わっていこうとしているのかは偉い学者さんが調べた程度では全ては分からないだろうということも当然あるだろう。

 何かとは何かであることが分かるまで何かのままで、何かが分かることでその何かが特定される。ただ、その何かが完全に特定されることは無く、命の定義や次元の定義でさえそれはまだ完全に特定も確固たる定義すらされていない。子孫が残せればそれが命であるとするならば、高度なコンピュータでさえも何らかの形でその分身を残せれば命である。遺伝子しか持たないウイルスでさえも子孫を残して増殖する能力があるのだから、それは命とも言えるし、自分でどんどん学習して人と話せるようになる生き物やプログラムに片方は有機物だから命で、片方はデジタルデータだから命ではないと言い切れるかと言えば、時代によってその定義も変化する。勿論、考え方によっても命であるかどうかの解釈も違ってくる。

 世の中は常に「何か」で溢れている。

軽SUVやSUV風軽が持て囃される傾向にあるが、目的を見失わないように。

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