海水にカロリーが有るとすれば・・・という点にいつも触れないのは何故かな?。
陸上動物と違って海洋生物は常に海水に浸かっているのだ。つまり、体表面から海水を摂取して栄養を摂取できている可能性だってある訳だ。
海水には場所や深さによって栄養の豊富な場所と非常に薄い場所があるという。
もしもダイオウグソクムシさん(海底の巨大ダンゴムシ)が住んでいる場所が栄養が非常に薄い場所だったとしよう。だけど、水族館の海水は基本的に近海のそんなに深くない場所から取り込んでるとする。
もしもそこの海水が栄養豊富とすれば、ダイオウグソクムシくんはその海水だけで十分に栄養摂取できている可能性だってある。
あくまでも仮説ではあるが、海水を飲んで栄養を補えているならば、ダイオウグソクムシくんが数年にわたって食事を摂らずに済むとも考えられる。
この仮説がもしも可能性として高い場合はこれを参考とした文書や記事を書いても良いが、素直にソースとしてリンクしてくれ。
まぁ、Googleほどのブログだから、この記事の書いた年月日は証拠ともなり得るんだけどね。
2014年1月11日土曜日
究極の非常食を考える
お湯が使える条件ではカップスープだろうね。
カップラーメンは麺やかやく、スープがダメになるけど、カップースープは光が当たらず高温にならない場所に置けば3年くらい大丈夫だったよ。それに嵩張らないし、最悪、水で戻してもいい。ちょっと溶けにくいけど。
缶詰はコンビーフ。あれは基本的にそういう保存食だったのだよ。液体が多いものは缶が膨らんでダメになるよ。
ただ、コンビーフは温めないと「蝋燭」食ってるみたいでアレだから。
夏は別に海に潜ったり、その辺の食える雑草で何とかなる。
冬は雪を掘り起こして冬眠中の野草を食べればいい。凍らないように糖分を生成しているはずだから栄養はあると思うぞ。まぁ、冬でも別にデブだから海に潜ってもそこそこ大丈夫だろう。
田舎のほうじゃ海岸にいっぱい流木が流れ着いているし、海辺には松の木が防風林として植えられているから松ぼっくりがよく燃える燃料となる。あとはその辺のゴミで鍋を作ればいいのさ。
実践するヒマが無くても、普段から考えたり、外を歩くときに周りを良く見ていれば、使えるものなんて幾らでもあると思う。こんな便利な時代に住んでいるんだから、大半の人は何も考えていないだろうけど、災害なんてものは突然やってくるものさ。
カップラーメンは麺やかやく、スープがダメになるけど、カップースープは光が当たらず高温にならない場所に置けば3年くらい大丈夫だったよ。それに嵩張らないし、最悪、水で戻してもいい。ちょっと溶けにくいけど。
缶詰はコンビーフ。あれは基本的にそういう保存食だったのだよ。液体が多いものは缶が膨らんでダメになるよ。
ただ、コンビーフは温めないと「蝋燭」食ってるみたいでアレだから。
夏は別に海に潜ったり、その辺の食える雑草で何とかなる。
冬は雪を掘り起こして冬眠中の野草を食べればいい。凍らないように糖分を生成しているはずだから栄養はあると思うぞ。まぁ、冬でも別にデブだから海に潜ってもそこそこ大丈夫だろう。
田舎のほうじゃ海岸にいっぱい流木が流れ着いているし、海辺には松の木が防風林として植えられているから松ぼっくりがよく燃える燃料となる。あとはその辺のゴミで鍋を作ればいいのさ。
実践するヒマが無くても、普段から考えたり、外を歩くときに周りを良く見ていれば、使えるものなんて幾らでもあると思う。こんな便利な時代に住んでいるんだから、大半の人は何も考えていないだろうけど、災害なんてものは突然やってくるものさ。
2013年10月15日火曜日
肥後守(ひごのかみ)
Wikipediaでは肥後守をこのように紹介している。※当該ページ下の写真は私が撮影したもの。
簡単に主観を交えて紹介すれば、肥後守とは永尾駒製作所(カネ駒)の商標であり、伝統的な工芸品のひとつで、柄(ハンドル)と刃をかしめ(リベット)で留め、刃の固定は刃根(チキリ)によって行なう構造が非情にシンプルな日本のナイフ(和式ナイフ)である。
永尾駒製作所(カネ駒)以外の鍛冶屋さんが製作したものは、商標の関係から「肥後守型ナイフ」または、簡単に「肥後ナイフ」と呼び、構造自体は殆ど一緒で、ハンドル、刃、チキリ、かしめのおよび材質およびそれらの材質にバリエーションがある。
大きさは「豆」「中」「大」「大大」「特大」「ジャンボ」などに分類され、刃の材質は「ステンレス」「全鋼」「青紙」「白紙」などがある。ハンドルはクロームメッキ/黒/真鍮が主流。刃やハンドルに槌目の付いたものや、ダマスカスなどの製品もある。
値段は全鋼などの安いものでは360円から800円前後。真鍮製のハンドルに青紙(特殊鋼)を割り込んだものは700円から2100円程度。特別鍛造品ともなるとハンドルが厚く刻印が異なったり、刃が何層にも折り返された特別鍛造品などの高級品もあり、5000円から16000円前後のものもある。
肥後守はナイフであり、用途は使用者の自由。 手工芸や工作などに使用するも良し。鉛筆を削っても良し。ただ、基本的にそのままでもある程度の切れ味はあるが、研いで使うタイプの刃物なので、ステンレスの包丁のように肉や魚や果物や野菜を切って少し放置しただけで簡単に錆びる。
買って直ぐのとき、販売者によってはグリスのようなものが塗られているのでよく拭き取らないと切ったものに油が付着するので注意。よく拭いて、専用の刃物油などで手入れを行なう。
品質の均一さについては、1本ずつの手作りであるため以下の工程で個体差が出る。
①プレスなどの型で刃を打ち抜くとき。
②チキリを整形するとき。
③鍛造、焼入れするとき。
④グラインダー?で刃を整形するとき。
このため、全く同じ商品を注文しても、刃やチキリが同じ形状ではないことが多く、場合によってはかしめが緩いこともある。チキリの曲がる部分が微妙に短かったり長かったりして真っ直ぐに伸ばしたときでさえ刃とハンドルが一直線にならない商品もある。 安いもの(普及品)であれば3本買ってようやく1本が気に入るレベルと思えば良い。※私は特大・大大・大・中・豆を合わせて18本持っている。
研ぎについは100円ショップの砥石(300番)はお奨めしない。あの砥石はちゃんとした砥石の面均し(砥石は刃物を研ぐ度に面が波打って磨耗するため、定期的に砥石の面を平坦に均す(ならす)こと)に最適で、あの砥石でまともに研げるのは草刈の安い鎌(カマ)くらいのものである。あれで包丁を研いだら刃がボロボロになるので絶対にお勧めしない。
肥後守の研ぎに適しているのは800~1200番の中砥石と、3000番の仕上げ砥石の2つ。もっと光沢を出したいときは5000~6000番の超仕上げ砥石を使う。片面の砥石でも両面の砥石でも構わないが、研いでいるときに砥石が動かないように、適当な水を入れられるトレイに砥石を固定できるような状態が望ましい。
肥後守の刃は出荷時には平面に見えるが、砥石で削っていくと研げない部分が残って、見た目に波打っていることが分かる荒削り状態となっている。
これを本気で研ごうと思えば大変な労力が必要で、最も刃の材質が柔らかい全鋼でさえ、3回分に相当する研ぎを一気に行なおうとすれば800番の砥石を使用しても3~5時間は掛かる。その後、3000番で仕上げを掛けるために30分。刃を少し立てて刃付けをするために5分程度必要。
水を切って、乾いた布で丹念に拭いてからドライヤーなどで、かしめ部分に入り込んだ水分を乾かし、刃物油でかしめを潤してから刃とハンドルを綺麗に磨き上げる作業に10~20分程度必要。(乾燥についてはきっちり降って水切りした後に乾いた布で丁寧に水気を拭いてオイルヒーターの上に30分放置しても良い)
実際のところ、普及品の肥後守は完成品ではなく、半完成品状態で出荷されているとも言える。 理由としては個人が完全に刃付けをするため、これだけの手間と時間が必要だからだ。刃物の側面が均一に平らであるならばこれらの時間は三分の一ほどで済むのですけど。
肥後守も属性は刃物で種類はナイフであるけれど、単なる道具でしかありません。これだけの手間暇をかけてもしっかり自分好みに仕上げる根性があれば肥後守に愛着が持てるのだろうということ。 目的を達成するために道具をベストな状態に手入れしたり、道具そのものを自分好みにカスタマイズすることが好きなクリエイター属性の人には肥後守はお奨め。 目的をもっとも効率的に達成したい人には穴に突っ込んで回すだけの鉛筆削りをどうぞということ。
<最後に>
今の時代は「銃刀法」が煩いので、正当な理由無く刃物を所持することが禁止されているため、肥後守をむやみやたらと所持できない。でも、ナイフの使い方をしっかり理解して、安全に使いこなせるということは色んな面で有利であるとも言える。 と、同時に「ナイフを持っていて用途がはっきりしない人やナイフを使いこなせない人って何のためにナイフを持っているの?」と疑われる要因ともなる。それなら職務質問されたときに「鉛筆はナイフで削る派です!」と目の前で実演して見せれば警察官も納得?なのではないかと。
生まれてから鉛筆は鉛筆削りで削るものという若い人や別に肥後守なんて興味が無いだろうから触れもしないだろうけど、わざわざ鉛筆を削るために肥 後守を使用することを非難する「鉛筆削りを使えばいいだろ?馬鹿なの?死ぬの?」という自己中心的な人が居る。 あの論法は乱暴過ぎるというよりも、個人の自由でしょ?(失笑)、人に強要するようなことじゃないし・・・というレベルで、単にナイフで鉛筆を綺麗に削れないからじゃないの?(苦笑)。何をそんなにムキになっているのだろう。
少なくとも私は果物ナイフでリンゴを皮を切らずに剥けます。包丁も料理人ほどではないにしても普通の人より使いこなせます。鉈で薪を割れます。彫刻等で版画を掘れます。使おうと思えば道具は道具として僅かに練習すれば大抵のものは扱えるようになれます。小学校1~2年で既に包丁を使って今は亡き父親とリンゴの皮むき競争をしたものです。もちろん、小学校の家庭科はオール5です。裁縫や手芸も姉と一緒にやってましたのでミシンも針で縫うのも余裕です。電子工作も小学校3年から齧っています。
それというのも多分、小さいころからきちんと刃物を扱えたことが手先が器用になった。刃物から裁縫、工具、農具に至るまでアナログなもので家にあったものは興味を持ってどんどん使ったことが良かったんだと思う。同時に「危ないから触らない!」なんて言う親ではなかったことが幸いしているのかも。
小学生に肥後守を・・・というのは都会の学校じゃ逆に危ないかもね。何でもある環境に育った子供よりも、ある物を工夫して遊んでいる子供の方が逆にしっかりしていると思うよ。
まあ、それ自体も個人差があるわけですし、刃物を最初から危ないものであると親が使い方を指導さえすればなんら危ないものではないですし。問題は、その親が刃物を危ないからと触らせてもらえなかったことによって、子供が高校生くらいになったとき、かえって苦労するのではないかと。それを考えたら子供の頃から果物の皮剥きや料理、鉛筆をナイフで削るという経験は大人になってから必ず役に立つのではないかと個人的には思うのですよ。
簡単に主観を交えて紹介すれば、肥後守とは永尾駒製作所(カネ駒)の商標であり、伝統的な工芸品のひとつで、柄(ハンドル)と刃をかしめ(リベット)で留め、刃の固定は刃根(チキリ)によって行なう構造が非情にシンプルな日本のナイフ(和式ナイフ)である。
永尾駒製作所(カネ駒)以外の鍛冶屋さんが製作したものは、商標の関係から「肥後守型ナイフ」または、簡単に「肥後ナイフ」と呼び、構造自体は殆ど一緒で、ハンドル、刃、チキリ、かしめのおよび材質およびそれらの材質にバリエーションがある。
大きさは「豆」「中」「大」「大大」「特大」「ジャンボ」などに分類され、刃の材質は「ステンレス」「全鋼」「青紙」「白紙」などがある。ハンドルはクロームメッキ/黒/真鍮が主流。刃やハンドルに槌目の付いたものや、ダマスカスなどの製品もある。
値段は全鋼などの安いものでは360円から800円前後。真鍮製のハンドルに青紙(特殊鋼)を割り込んだものは700円から2100円程度。特別鍛造品ともなるとハンドルが厚く刻印が異なったり、刃が何層にも折り返された特別鍛造品などの高級品もあり、5000円から16000円前後のものもある。
肥後守はナイフであり、用途は使用者の自由。 手工芸や工作などに使用するも良し。鉛筆を削っても良し。ただ、基本的にそのままでもある程度の切れ味はあるが、研いで使うタイプの刃物なので、ステンレスの包丁のように肉や魚や果物や野菜を切って少し放置しただけで簡単に錆びる。
買って直ぐのとき、販売者によってはグリスのようなものが塗られているのでよく拭き取らないと切ったものに油が付着するので注意。よく拭いて、専用の刃物油などで手入れを行なう。
品質の均一さについては、1本ずつの手作りであるため以下の工程で個体差が出る。
①プレスなどの型で刃を打ち抜くとき。
②チキリを整形するとき。
③鍛造、焼入れするとき。
④グラインダー?で刃を整形するとき。
このため、全く同じ商品を注文しても、刃やチキリが同じ形状ではないことが多く、場合によってはかしめが緩いこともある。チキリの曲がる部分が微妙に短かったり長かったりして真っ直ぐに伸ばしたときでさえ刃とハンドルが一直線にならない商品もある。 安いもの(普及品)であれば3本買ってようやく1本が気に入るレベルと思えば良い。※私は特大・大大・大・中・豆を合わせて18本持っている。
研ぎについは100円ショップの砥石(300番)はお奨めしない。あの砥石はちゃんとした砥石の面均し(砥石は刃物を研ぐ度に面が波打って磨耗するため、定期的に砥石の面を平坦に均す(ならす)こと)に最適で、あの砥石でまともに研げるのは草刈の安い鎌(カマ)くらいのものである。あれで包丁を研いだら刃がボロボロになるので絶対にお勧めしない。
肥後守の研ぎに適しているのは800~1200番の中砥石と、3000番の仕上げ砥石の2つ。もっと光沢を出したいときは5000~6000番の超仕上げ砥石を使う。片面の砥石でも両面の砥石でも構わないが、研いでいるときに砥石が動かないように、適当な水を入れられるトレイに砥石を固定できるような状態が望ましい。
肥後守の刃は出荷時には平面に見えるが、砥石で削っていくと研げない部分が残って、見た目に波打っていることが分かる荒削り状態となっている。
これを本気で研ごうと思えば大変な労力が必要で、最も刃の材質が柔らかい全鋼でさえ、3回分に相当する研ぎを一気に行なおうとすれば800番の砥石を使用しても3~5時間は掛かる。その後、3000番で仕上げを掛けるために30分。刃を少し立てて刃付けをするために5分程度必要。
水を切って、乾いた布で丹念に拭いてからドライヤーなどで、かしめ部分に入り込んだ水分を乾かし、刃物油でかしめを潤してから刃とハンドルを綺麗に磨き上げる作業に10~20分程度必要。(乾燥についてはきっちり降って水切りした後に乾いた布で丁寧に水気を拭いてオイルヒーターの上に30分放置しても良い)
実際のところ、普及品の肥後守は完成品ではなく、半完成品状態で出荷されているとも言える。 理由としては個人が完全に刃付けをするため、これだけの手間と時間が必要だからだ。刃物の側面が均一に平らであるならばこれらの時間は三分の一ほどで済むのですけど。
肥後守も属性は刃物で種類はナイフであるけれど、単なる道具でしかありません。これだけの手間暇をかけてもしっかり自分好みに仕上げる根性があれば肥後守に愛着が持てるのだろうということ。 目的を達成するために道具をベストな状態に手入れしたり、道具そのものを自分好みにカスタマイズすることが好きなクリエイター属性の人には肥後守はお奨め。 目的をもっとも効率的に達成したい人には穴に突っ込んで回すだけの鉛筆削りをどうぞということ。
<最後に>
今の時代は「銃刀法」が煩いので、正当な理由無く刃物を所持することが禁止されているため、肥後守をむやみやたらと所持できない。でも、ナイフの使い方をしっかり理解して、安全に使いこなせるということは色んな面で有利であるとも言える。 と、同時に「ナイフを持っていて用途がはっきりしない人やナイフを使いこなせない人って何のためにナイフを持っているの?」と疑われる要因ともなる。それなら職務質問されたときに「鉛筆はナイフで削る派です!」と目の前で実演して見せれば警察官も納得?なのではないかと。
生まれてから鉛筆は鉛筆削りで削るものという若い人や別に肥後守なんて興味が無いだろうから触れもしないだろうけど、わざわざ鉛筆を削るために肥 後守を使用することを非難する「鉛筆削りを使えばいいだろ?馬鹿なの?死ぬの?」という自己中心的な人が居る。 あの論法は乱暴過ぎるというよりも、個人の自由でしょ?(失笑)、人に強要するようなことじゃないし・・・というレベルで、単にナイフで鉛筆を綺麗に削れないからじゃないの?(苦笑)。何をそんなにムキになっているのだろう。
少なくとも私は果物ナイフでリンゴを皮を切らずに剥けます。包丁も料理人ほどではないにしても普通の人より使いこなせます。鉈で薪を割れます。彫刻等で版画を掘れます。使おうと思えば道具は道具として僅かに練習すれば大抵のものは扱えるようになれます。小学校1~2年で既に包丁を使って今は亡き父親とリンゴの皮むき競争をしたものです。もちろん、小学校の家庭科はオール5です。裁縫や手芸も姉と一緒にやってましたのでミシンも針で縫うのも余裕です。電子工作も小学校3年から齧っています。
それというのも多分、小さいころからきちんと刃物を扱えたことが手先が器用になった。刃物から裁縫、工具、農具に至るまでアナログなもので家にあったものは興味を持ってどんどん使ったことが良かったんだと思う。同時に「危ないから触らない!」なんて言う親ではなかったことが幸いしているのかも。
小学生に肥後守を・・・というのは都会の学校じゃ逆に危ないかもね。何でもある環境に育った子供よりも、ある物を工夫して遊んでいる子供の方が逆にしっかりしていると思うよ。
まあ、それ自体も個人差があるわけですし、刃物を最初から危ないものであると親が使い方を指導さえすればなんら危ないものではないですし。問題は、その親が刃物を危ないからと触らせてもらえなかったことによって、子供が高校生くらいになったとき、かえって苦労するのではないかと。それを考えたら子供の頃から果物の皮剥きや料理、鉛筆をナイフで削るという経験は大人になってから必ず役に立つのではないかと個人的には思うのですよ。
2013年7月9日火曜日
馬鹿+刃物
代表的なものが「馬鹿と鋏は使いよう」(バカとハサミはつかいよう)だが、「と」を置き換えると面白そうだと思った。
「どちらも使い方次第」という例えで使われる言葉だが、一文字変えるとどんな感じに変わるのか、検証してみよう!
「馬鹿と刃物」単純にANDであるが、日本語的には両者をくっつけてはいけない雰囲気が漂う。 「馬鹿に刃物」持たせちゃいけないような気がする。いや、馬鹿に刃物を○○するという文もあるな。
「馬鹿な刃物」馬鹿っぽい刃物ということだろうか。刃物に知性は無いので、擬人化したら馬鹿っぽく見せられるかも知れない。
「馬鹿や刃物」両者が等(など)になるから、同列とみなされる文脈になる。
「馬鹿は刃物」馬鹿は刃物を持ちたがるという意味になりそうだ。いや、馬鹿は刃物のように危険という意味か?
「馬鹿で刃物」馬鹿が刃物の原料っぽく読めるぞ!
「馬鹿か刃物」これはORか。どちらかを選ばねばならないようになったぞ!、オラは馬鹿よりも刃物を選ぶな。
「馬鹿へ刃物」馬鹿に刃物を譲渡しそうな雰囲気になった。いやいや、渡しちゃダメだ。
「馬鹿ね刃物」刃物に「馬鹿ね・・・」と言ってるのか!
「馬鹿の刃物」馬鹿が持ってる刃物か・・・どんなんだろう。
「馬鹿よ刃物」これも刃物に「馬鹿よ!」とか言ってるようだ。
「馬鹿を刃物」馬鹿を刃物でなんとかするに違いない!。
とりあえず、二つのモノを繋ぐための文字は「と」「に」「な」「や」「は」「で」「か」「へ」「の」「を」が一般的だということが分かった。いや、馬鹿は特定の誰かではなく形容詞か。 日本語は難しい。
「馬鹿と刃物」単純にANDであるが、日本語的には両者をくっつけてはいけない雰囲気が漂う。 「馬鹿に刃物」持たせちゃいけないような気がする。いや、馬鹿に刃物を○○するという文もあるな。
「馬鹿な刃物」馬鹿っぽい刃物ということだろうか。刃物に知性は無いので、擬人化したら馬鹿っぽく見せられるかも知れない。
「馬鹿や刃物」両者が等(など)になるから、同列とみなされる文脈になる。
「馬鹿は刃物」馬鹿は刃物を持ちたがるという意味になりそうだ。いや、馬鹿は刃物のように危険という意味か?
「馬鹿で刃物」馬鹿が刃物の原料っぽく読めるぞ!
「馬鹿か刃物」これはORか。どちらかを選ばねばならないようになったぞ!、オラは馬鹿よりも刃物を選ぶな。
「馬鹿へ刃物」馬鹿に刃物を譲渡しそうな雰囲気になった。いやいや、渡しちゃダメだ。
「馬鹿ね刃物」刃物に「馬鹿ね・・・」と言ってるのか!
「馬鹿の刃物」馬鹿が持ってる刃物か・・・どんなんだろう。
「馬鹿よ刃物」これも刃物に「馬鹿よ!」とか言ってるようだ。
「馬鹿を刃物」馬鹿を刃物でなんとかするに違いない!。
とりあえず、二つのモノを繋ぐための文字は「と」「に」「な」「や」「は」「で」「か」「へ」「の」「を」が一般的だということが分かった。いや、馬鹿は特定の誰かではなく形容詞か。 日本語は難しい。
2012年8月13日月曜日
無限の可能性
無限はそのまま「限り無い」という意味であるが、この世に限りないものなど無い。せいぜい「多くの」「膨大な」「数え切れないほどの」「無限にも等しいほどの」という方が正しい。
数学などの割り切れない数に関してはその計算が永遠に続くというものもあるが、数学には無限に続くものがあっても、数を物に置き換えると、割っていくうちに最小単位である原子に到達していづれは割り切れなくなる。
おおよそこの世で無限と表現して構わないと思われるものは宇宙であり、人類がその全容を把握するするまでに滅びれば観測機器で把握できる範囲でしか無く、太陽系や銀河系を飛び出せる科学文明を手に入れたとしても時間と距離が問題になる。それこそワームホールでもなければ観測できたデータを地球に送信しても天体の距離(光年)から考えれば近いものでも数光年。遠いものでも131億2千万光年と、人類という種の寿命を遥かに超えるほどの距離である。
可能性に関しては表現方法としての比喩であって、例えば子供たちに「君たちには無限の可能性がある」などと言っても、将来=子供の職業であり、職業の数が無限に等しいということはない。一般的には電話帳に載っている程度の職業があり、電話帳に載っていない職業を含めてもやはり無限ではないが、起業するという可能性を考えればその選択肢は膨大なものになるかもしれない。
同時に、無限の可能性があったとしても、無限に等しい職業を調べたり実際に体験することは不可能に等しいが、インターネットを使用して大抵のことを調べられる現代では、昔に比べて遥かに多くの職業を知ることができる。ただ、知識欲というものは疑問が無ければ生じることは無く、知識欲が無ければ疑問にも至らない。
子供の可能性を伸ばすために勉強に時間を費やしてどんな職業にもなれるようにしておく大人は多いと思うが、逆を言えば、子供に「将来何になりたい?」という質問を投げかけるときには、それに成るために必要な勉強や必要な資格とそれをするために必要なことを教えるべきではなかろうか。
なりたい将来の自分像というものは子供の頃には誰しもが描くものであるが、子供の夢を壊したくないから大変だと思わせたくないという考えでは子供に助言すらしてやれずただの夢として終わる。
逆にそれでもなりたいというのであれば、親は少なくともどの教科や分野を勉強するべきか助言をする必要があり、子供には遊びも大事だけど、せいぜい必須科目くらいは強化しその職業に就けるための本を与えて興味を持たせなければ子供である時間というのは長くは無いのだから。
そういう意味で親は子供とのコミュニケーションを怠っては子供のためにもならないし、親が馬鹿だと子供の可能性も狭まってしまう。子供に割く時間が無い大人であれば、逆にその調べ方を教えてあとは必要なときに必要な問答を行なうという手もあるが、何になりたいという興味を示す切欠くらいは欲しい。
職業の中には、子供のある一定の年齢までに経験させないとそれが大人になってからできなくなる(努力すれば可能性はゼロではないが、子供よりも大人は色々と適応能力が落ちる)ものもある。
私の親はソッチ方面に全く無頓着で子供である私に導きや知識を与えることが全く無かったし、必要な時期に必要な促しを全くしなかったので大人になってから 色々と後悔もしているし、逆に大人になってからの方が知識欲全快で、気になるものは片っ端からその概要を吸収。 一体この熊野郎は何屋になりたいんだという感じの何でも屋になってしまっただけで、死ぬまでやりたいことが山積しているし、死ぬまで自分の可能性を試してみたいとも思っている。
人間の寿命が80年かそこらであるからして、実際には一人の人間が得られる知識や体験、技能というものには限界があるし、それこそ無限の遣り残しというものはあるだろうと思った。
と、同時に何にもなりたくないし、何もしたくないという人間は何にもなれず、ただ消費するだけの生産性の無い人間になるのだろうと思う。
今の自分に納得しているか。今の自分の能力に満足しているか。いまやりたいことは何で、それに必要な知識や技能は何か。自分に不足しているものは何か。そしていま自分が何をすべきか。気付きに至ることが重要で、あとは努力と根性。
でも、一番大事なのは生きていることで、自分の命を守る手段や知識が無いと、もしもの場合に何もできなかったりするんだよね。人が死ぬ可能性は、病気、怪我、事故、災害、殺人を問わず、その可能性は無限に等しいかもしれない。だから将来何になるという目標や努力とともに、それを回避するための知識が無いとその努力も徒労に終わってしまう。それこそ、人間の一生というのは、自信の行動と外部からの危険の可能性に無限の分岐点があるとも言えるのかもしれない。
数学などの割り切れない数に関してはその計算が永遠に続くというものもあるが、数学には無限に続くものがあっても、数を物に置き換えると、割っていくうちに最小単位である原子に到達していづれは割り切れなくなる。
おおよそこの世で無限と表現して構わないと思われるものは宇宙であり、人類がその全容を把握するするまでに滅びれば観測機器で把握できる範囲でしか無く、太陽系や銀河系を飛び出せる科学文明を手に入れたとしても時間と距離が問題になる。それこそワームホールでもなければ観測できたデータを地球に送信しても天体の距離(光年)から考えれば近いものでも数光年。遠いものでも131億2千万光年と、人類という種の寿命を遥かに超えるほどの距離である。
可能性に関しては表現方法としての比喩であって、例えば子供たちに「君たちには無限の可能性がある」などと言っても、将来=子供の職業であり、職業の数が無限に等しいということはない。一般的には電話帳に載っている程度の職業があり、電話帳に載っていない職業を含めてもやはり無限ではないが、起業するという可能性を考えればその選択肢は膨大なものになるかもしれない。
同時に、無限の可能性があったとしても、無限に等しい職業を調べたり実際に体験することは不可能に等しいが、インターネットを使用して大抵のことを調べられる現代では、昔に比べて遥かに多くの職業を知ることができる。ただ、知識欲というものは疑問が無ければ生じることは無く、知識欲が無ければ疑問にも至らない。
子供の可能性を伸ばすために勉強に時間を費やしてどんな職業にもなれるようにしておく大人は多いと思うが、逆を言えば、子供に「将来何になりたい?」という質問を投げかけるときには、それに成るために必要な勉強や必要な資格とそれをするために必要なことを教えるべきではなかろうか。
なりたい将来の自分像というものは子供の頃には誰しもが描くものであるが、子供の夢を壊したくないから大変だと思わせたくないという考えでは子供に助言すらしてやれずただの夢として終わる。
逆にそれでもなりたいというのであれば、親は少なくともどの教科や分野を勉強するべきか助言をする必要があり、子供には遊びも大事だけど、せいぜい必須科目くらいは強化しその職業に就けるための本を与えて興味を持たせなければ子供である時間というのは長くは無いのだから。
そういう意味で親は子供とのコミュニケーションを怠っては子供のためにもならないし、親が馬鹿だと子供の可能性も狭まってしまう。子供に割く時間が無い大人であれば、逆にその調べ方を教えてあとは必要なときに必要な問答を行なうという手もあるが、何になりたいという興味を示す切欠くらいは欲しい。
職業の中には、子供のある一定の年齢までに経験させないとそれが大人になってからできなくなる(努力すれば可能性はゼロではないが、子供よりも大人は色々と適応能力が落ちる)ものもある。
私の親はソッチ方面に全く無頓着で子供である私に導きや知識を与えることが全く無かったし、必要な時期に必要な促しを全くしなかったので大人になってから 色々と後悔もしているし、逆に大人になってからの方が知識欲全快で、気になるものは片っ端からその概要を吸収。 一体この熊野郎は何屋になりたいんだという感じの何でも屋になってしまっただけで、死ぬまでやりたいことが山積しているし、死ぬまで自分の可能性を試してみたいとも思っている。
人間の寿命が80年かそこらであるからして、実際には一人の人間が得られる知識や体験、技能というものには限界があるし、それこそ無限の遣り残しというものはあるだろうと思った。
と、同時に何にもなりたくないし、何もしたくないという人間は何にもなれず、ただ消費するだけの生産性の無い人間になるのだろうと思う。
今の自分に納得しているか。今の自分の能力に満足しているか。いまやりたいことは何で、それに必要な知識や技能は何か。自分に不足しているものは何か。そしていま自分が何をすべきか。気付きに至ることが重要で、あとは努力と根性。
でも、一番大事なのは生きていることで、自分の命を守る手段や知識が無いと、もしもの場合に何もできなかったりするんだよね。人が死ぬ可能性は、病気、怪我、事故、災害、殺人を問わず、その可能性は無限に等しいかもしれない。だから将来何になるという目標や努力とともに、それを回避するための知識が無いとその努力も徒労に終わってしまう。それこそ、人間の一生というのは、自信の行動と外部からの危険の可能性に無限の分岐点があるとも言えるのかもしれない。
2012年8月8日水曜日
ラジオとは何か
ラジオとは何か。
radioという単語そのものを検索しても出るのはラジオ放送やラジオの受信機、ラジオ放送、ラジオ放送局そのものの事ばかり。
そもそもラジオという単語そのものを正しく 翻訳すると「放射」を表し、放送を受信する装置。つまりポータブルラジオやポケットラジオ。カーラジオなどの受信装置ではなく、放送などを電波で放射する行為に相当する。
goo辞書では radio の項目の次のページにこうある
放射性と放射。電波の放射。つまり放送の電波を放射すること。これがラジオの本来の意味であると認識したことから始まる。
当然、私は幼少の頃からラジオ馬鹿で、学研の科学でゲルマラジオを手にしてから電子ブロックや、その延長上の電子工作にどっぷりな時期があって、ラジオは電波として空中を伝播する高周波信号をダイオードという一方向にしか電気を通さない電子部品で音声信号に変換し、それをイヤホンなどで聞くという認識はあった。
そして、ラジオの重要な要素は電波が第一で、受信が第二で、同調が第三で、検波が第四で、信号を音に変えることが第五の要素という認識がある。
第一の要素「電波」は、僅かでも届いていれば1(有)で、全く届いていなければ0(無)である。
第二の要素「受信」は、放射された放送をどれだけ効率よくキャッチすること。
第三の要素「同調」は、ラジオ受信機のチューナーできっちり放送局の周波数に合わせること。
第四の要素「検波」は、高周波信号を音声信号に復調すること。つまり電波を音声に戻す。
第五の要素「信号を音に」は、イヤホンなどで音声信号を音に戻して聴くこと。
ラジオ放送をラジオ受信機で受信するためにはまず、電波が届いていること。それはどんなに弱くても届いていれば放送を受信できる可能性がある。
次に、弱い電波をより強い電波として捉えるためにはアンテナの性能がモノを言う。基本的に大きさ(長さ)でカバーする方法と、アンテナの構造(形状)により効果的にキャッチする方法。そして捕まえた電波を増幅する方法がある。
この2点が最も重要で、更に他の放送局と周波数が被っていたりするとアンテナの向き(または指向性の強いアンテナ)で目的の電波をキャッチする方法および、第四の要素の検波で目的の信号から必要な電波をフィルタリングする同期検波などが必要になってくる。基本的に同調回路は周波数を目的のものに合わせるための装置であり、目的の電波が拾えていればそれで問題は無いのだが、今のラジオ受信機はその殆どがラジオの中に内蔵されたコイル(バーアンテナ)と呼ばれるものでAM放送(中波:MW)をキャッチする。
一つ前に言ったアンテナの大きさ・構造・増幅に関しては、ラジオ受信機に最初から備わっているアンテナに対して外部アンテナ経由。または外部アンテナでキャッチした電波をアンプなどで増幅したものを本体のアンテナに接続または電気的な接続によって流し込む方法。
ラジオにの主流派は一般にAM放送とFM放送があって、中波であるAM放送(kHz)と超短波であるFM放送(MHz)があって、AM放送は先に書いたとおり内蔵バーアンテナ(コンポは付属のループアンテナ)で受信し、FM放送はロッドアンテナ(コンポは付属のワイヤーアンテナ)で行なう。
AM放送は内蔵バーアンテナ(本体に対して水平に内蔵)を放送局に対して水平に向ける。FM放送はロッドアンテナの場合、長さ、傾き、角度などを調整して最適な方向に変える。
コンポの場合、AMのループアンテナは輪っかを正面と見た場合、左右方向に指向性があり、左右どちらかの方向に放送局が向くように輪を水平にクルっと回して合わせる。FMの場合はT字または逆L字のワイヤーアンテナである場合、放送局に対して水平に張る。
AM放送のアンテナの工夫は、長い銅線を水平に長く(十数m。または僻地では数十m)張り、片方をラジオへ縦に巻きつけてからアースに流す方法と、ループアンテナを作って事前に高周波信号をキャッチと同時に目的の周波数で共振させて増幅する方法とがある。更に増幅された高周波信号をアンプで増幅するものもある。アンプで増幅しないものをパッシブ。アンプで増幅したものをアクティブと呼び、これはアンプなしスピーカーとアンプ有りスピーカーの呼び方でも同じで、パッシブスピーカー。アクティブスピーカーと呼ぶ。
FM放送の場合、T字に張った180cm程度のワイヤーアンテナをロッドアンテナに繋ぐか、適当な2m程度の銅線を窓の辺りに適当に張るだけでもある程度の効果がある。
ついでに短波(SW)の場合は、垂直に2~3m張るか窓から(非金属の棒を使って壁から離して)垂らす。他にはシールドループというものがあるが、基本的に私が実証実験をしていないのでここでは説明を省略する。
最後に、インターネットラジオって、ネットワーク回線を使って網の目のようにネット通信で情報を放射しているんだろうけど電波を使っていない。または電波を必要としてないものだからラジオと呼ぶには非常に抵抗を感じる。個人的にだけどね。
radioという単語そのものを検索しても出るのはラジオ放送やラジオの受信機、ラジオ放送、ラジオ放送局そのものの事ばかり。
そもそもラジオという単語そのものを正しく 翻訳すると「放射」を表し、放送を受信する装置。つまりポータブルラジオやポケットラジオ。カーラジオなどの受信装置ではなく、放送などを電波で放射する行為に相当する。
goo辞書では radio の項目の次のページにこうある
- 一点からまっすぐ四方八方へ出すこと。また、四方八方へひろがり出ること。「中心から―する車の輻(や)」
- 物体が電磁波または粒子線の形でエネルギーを放出すること。また、その電磁波または粒子線。輻射(ふくしゃ)。
放射性と放射。電波の放射。つまり放送の電波を放射すること。これがラジオの本来の意味であると認識したことから始まる。
当然、私は幼少の頃からラジオ馬鹿で、学研の科学でゲルマラジオを手にしてから電子ブロックや、その延長上の電子工作にどっぷりな時期があって、ラジオは電波として空中を伝播する高周波信号をダイオードという一方向にしか電気を通さない電子部品で音声信号に変換し、それをイヤホンなどで聞くという認識はあった。
そして、ラジオの重要な要素は電波が第一で、受信が第二で、同調が第三で、検波が第四で、信号を音に変えることが第五の要素という認識がある。
第一の要素「電波」は、僅かでも届いていれば1(有)で、全く届いていなければ0(無)である。
第二の要素「受信」は、放射された放送をどれだけ効率よくキャッチすること。
第三の要素「同調」は、ラジオ受信機のチューナーできっちり放送局の周波数に合わせること。
第四の要素「検波」は、高周波信号を音声信号に復調すること。つまり電波を音声に戻す。
第五の要素「信号を音に」は、イヤホンなどで音声信号を音に戻して聴くこと。
ラジオ放送をラジオ受信機で受信するためにはまず、電波が届いていること。それはどんなに弱くても届いていれば放送を受信できる可能性がある。
次に、弱い電波をより強い電波として捉えるためにはアンテナの性能がモノを言う。基本的に大きさ(長さ)でカバーする方法と、アンテナの構造(形状)により効果的にキャッチする方法。そして捕まえた電波を増幅する方法がある。
この2点が最も重要で、更に他の放送局と周波数が被っていたりするとアンテナの向き(または指向性の強いアンテナ)で目的の電波をキャッチする方法および、第四の要素の検波で目的の信号から必要な電波をフィルタリングする同期検波などが必要になってくる。基本的に同調回路は周波数を目的のものに合わせるための装置であり、目的の電波が拾えていればそれで問題は無いのだが、今のラジオ受信機はその殆どがラジオの中に内蔵されたコイル(バーアンテナ)と呼ばれるものでAM放送(中波:MW)をキャッチする。
一つ前に言ったアンテナの大きさ・構造・増幅に関しては、ラジオ受信機に最初から備わっているアンテナに対して外部アンテナ経由。または外部アンテナでキャッチした電波をアンプなどで増幅したものを本体のアンテナに接続または電気的な接続によって流し込む方法。
ラジオにの主流派は一般にAM放送とFM放送があって、中波であるAM放送(kHz)と超短波であるFM放送(MHz)があって、AM放送は先に書いたとおり内蔵バーアンテナ(コンポは付属のループアンテナ)で受信し、FM放送はロッドアンテナ(コンポは付属のワイヤーアンテナ)で行なう。
AM放送は内蔵バーアンテナ(本体に対して水平に内蔵)を放送局に対して水平に向ける。FM放送はロッドアンテナの場合、長さ、傾き、角度などを調整して最適な方向に変える。
コンポの場合、AMのループアンテナは輪っかを正面と見た場合、左右方向に指向性があり、左右どちらかの方向に放送局が向くように輪を水平にクルっと回して合わせる。FMの場合はT字または逆L字のワイヤーアンテナである場合、放送局に対して水平に張る。
AM放送のアンテナの工夫は、長い銅線を水平に長く(十数m。または僻地では数十m)張り、片方をラジオへ縦に巻きつけてからアースに流す方法と、ループアンテナを作って事前に高周波信号をキャッチと同時に目的の周波数で共振させて増幅する方法とがある。更に増幅された高周波信号をアンプで増幅するものもある。アンプで増幅しないものをパッシブ。アンプで増幅したものをアクティブと呼び、これはアンプなしスピーカーとアンプ有りスピーカーの呼び方でも同じで、パッシブスピーカー。アクティブスピーカーと呼ぶ。
FM放送の場合、T字に張った180cm程度のワイヤーアンテナをロッドアンテナに繋ぐか、適当な2m程度の銅線を窓の辺りに適当に張るだけでもある程度の効果がある。
ついでに短波(SW)の場合は、垂直に2~3m張るか窓から(非金属の棒を使って壁から離して)垂らす。他にはシールドループというものがあるが、基本的に私が実証実験をしていないのでここでは説明を省略する。
最後に、インターネットラジオって、ネットワーク回線を使って網の目のようにネット通信で情報を放射しているんだろうけど電波を使っていない。または電波を必要としてないものだからラジオと呼ぶには非常に抵抗を感じる。個人的にだけどね。
危険とは何か
危険とは可能性のこと。危ない可能性。怪我や生命の危機の可能性。事故の可能性。悪いことが起きる。または蒙る可能性。危ない状態または危ないという状況。それに関わることによって何らかの悪い影響を受ける可能性。
この危険は看板や何らかの表示で危険と書かれている「分かっている」ものと、危険が「あるかもしれないという可能性がある」ものと、 明らかにそれをすること。または立ち入ったり触れることによって「危険を蒙る」ことに大別できると思う。
確実に危ないものとしては、近寄ることで直ちに怪我や健康被害。最悪の場合は死ぬ可能性がある可能性の状況や場所。そして物質に近寄ること。またはその空間に居ることで受ける。 安全措置が施されていない場所や、それそのものが危ない場合が入る。
分かりやすく言えば普段着で原子炉に近づいたり、火山の火口に近づいたり、落ちたら死ぬような高さの場所で綱渡りすること。
可能性としての危険は、その場に立ち入ったり、その物体を正しく使用または理解しないことによって危険なことが起きるまたは発生すること。
分かりやすく言うと、有毒ガスが発生しやすい場所を長時間うろついたり、崩れそうな建物に入ったり、腐った橋を渡ったり、滑りやすい斜面を大した装備も経験も持たずに徘徊することが入る。
そして、 もう2つほどある。それは気付いていない危険や、ヒューマンエラーによって起きる危険。
気付いていない危険にはこういったものがある。
いつも安全にそれを使っていた。でも、毎年事故が起きたりする。でも、それを危険ではないものに変えたり、危険が無いように使用することをしない状態によって起きる危険の可能性や、その危険そのものに気付かずにいまは安全だからと使用し、この先に何らかの事故や怪我を発生させる可能性がある状態。
もうひとつは慣れによる、それが危険であるという自覚が抜け落ちて漫然とそれを行なったり使用し続けたりする状況または心理的な状態。或いは、想定されるリスクを軽く見積もって、いざ、事故が起きてしまったときに取り返しの付かない状態に陥ってしまう。
上記にヒューマンエラーは含まれるが、真のヒューマンエラーというのは、分かっていてそれができなかったことによって発生してしまう状況が最も大きい。
また、その人の考え方や自覚によってそのレベルも様々で、同じ状況。同じもの。同じ状態であっても、その時と人によって起きたり起きなかったりするもの。簡単に言えば、「あれほど分かりきった事なのにどうしてしなかったんだろう」という状態。事例で言えば福島原発の冷却用に用意されていた予備電源がそう。対策していない。想定していない。壊れたけどいますぐ津波が来るはずもないだろう。という考えや集団としての機能の劣化によるもの。
そういえばまだある。無自覚の危険と、故意の危険。前者は車が良い事例。マイカーは便利であるが、乗る人が危険に無自覚なら事故を起したり、不可抗力の事故に巻き込まれやすい。後者はそれが危険な行為であることを知りながら暴走運転をすればそれは危険な行為を行なってしまう。
よく考えたらまだあった。無知の危険。つまり、それが危険であることを知らないという状態。これには2つの状況がある。知らされていない場合と、調べればそれが危険であることが間違いないのに知ろうともしないこと。または、疑ってそれを警戒するか、何も考えずに「いつも大丈夫だから」とそれをしてしまう 行為。
これは自転車がそれを表現するために一番良い事例だ。自転車には免許が要らないが、あれは乗って運転した時点で車両に相当するもの(軽車両)だから、道路交通法が適用される。基本的に車道の路側寄りを左側通行で、1列で走り並んで走行してはならない。夜はライトを点灯。傘をさして乗ってはいけない。ヘッドホンなどで周りの音を遮断して走行してはならない。時速20キロ程度で走行。止まれの標識のある場所では一時停止。信号も守らなくてはならない。 歩行者専用の場所では降りて押さなければならない。
さて、この中でいま一番熱いのは次に挙げるものだ。
既に調べれば分かること(既知の危険)を除外(それを確認するうえで改めて聞くという行為も行なわれる場合もある)し、それを踏まえたうえで他にどのような危険があるか。その危険が現実のものになった場合、どれほどの危険に相当するのか。そして、その危険を防ぐ上でどのようなことをしたら良いのか。そして最初の状況と、対策を行なったうえでのリスクの比較をすること。これをリスクアセスメントという。
このリスクアセスメントであるが、実際にその業務や行為に参加する人が率先して行なう場合と、保険会社が事故率の低下を狙って独自に保険加入者に対して行なうことがある。保険会社としても事故が多ければ加入者に対してお金を払わなければならない。その額が多ければ多いほど保険会社にとっては損失となる。つまりそういうこと。
一番大事なのは、いちいち表示しなければそれが危険であると知ることが可能な状態や状況ではなく、自分自身がその危険に対して敏感になることが最も望ましいのだが、気を抜けばプロでも危険に遭遇することもあるし、事故としてそれが結果となってしまうこともある。
まず、危険な目に遭わない方法としては、知ること。考えること。観察すること。感じること。疑うこと。
この危険は看板や何らかの表示で危険と書かれている「分かっている」ものと、危険が「あるかもしれないという可能性がある」ものと、 明らかにそれをすること。または立ち入ったり触れることによって「危険を蒙る」ことに大別できると思う。
確実に危ないものとしては、近寄ることで直ちに怪我や健康被害。最悪の場合は死ぬ可能性がある可能性の状況や場所。そして物質に近寄ること。またはその空間に居ることで受ける。 安全措置が施されていない場所や、それそのものが危ない場合が入る。
分かりやすく言えば普段着で原子炉に近づいたり、火山の火口に近づいたり、落ちたら死ぬような高さの場所で綱渡りすること。
可能性としての危険は、その場に立ち入ったり、その物体を正しく使用または理解しないことによって危険なことが起きるまたは発生すること。
分かりやすく言うと、有毒ガスが発生しやすい場所を長時間うろついたり、崩れそうな建物に入ったり、腐った橋を渡ったり、滑りやすい斜面を大した装備も経験も持たずに徘徊することが入る。
そして、 もう2つほどある。それは気付いていない危険や、ヒューマンエラーによって起きる危険。
気付いていない危険にはこういったものがある。
いつも安全にそれを使っていた。でも、毎年事故が起きたりする。でも、それを危険ではないものに変えたり、危険が無いように使用することをしない状態によって起きる危険の可能性や、その危険そのものに気付かずにいまは安全だからと使用し、この先に何らかの事故や怪我を発生させる可能性がある状態。
もうひとつは慣れによる、それが危険であるという自覚が抜け落ちて漫然とそれを行なったり使用し続けたりする状況または心理的な状態。或いは、想定されるリスクを軽く見積もって、いざ、事故が起きてしまったときに取り返しの付かない状態に陥ってしまう。
上記にヒューマンエラーは含まれるが、真のヒューマンエラーというのは、分かっていてそれができなかったことによって発生してしまう状況が最も大きい。
また、その人の考え方や自覚によってそのレベルも様々で、同じ状況。同じもの。同じ状態であっても、その時と人によって起きたり起きなかったりするもの。簡単に言えば、「あれほど分かりきった事なのにどうしてしなかったんだろう」という状態。事例で言えば福島原発の冷却用に用意されていた予備電源がそう。対策していない。想定していない。壊れたけどいますぐ津波が来るはずもないだろう。という考えや集団としての機能の劣化によるもの。
そういえばまだある。無自覚の危険と、故意の危険。前者は車が良い事例。マイカーは便利であるが、乗る人が危険に無自覚なら事故を起したり、不可抗力の事故に巻き込まれやすい。後者はそれが危険な行為であることを知りながら暴走運転をすればそれは危険な行為を行なってしまう。
よく考えたらまだあった。無知の危険。つまり、それが危険であることを知らないという状態。これには2つの状況がある。知らされていない場合と、調べればそれが危険であることが間違いないのに知ろうともしないこと。または、疑ってそれを警戒するか、何も考えずに「いつも大丈夫だから」とそれをしてしまう 行為。
これは自転車がそれを表現するために一番良い事例だ。自転車には免許が要らないが、あれは乗って運転した時点で車両に相当するもの(軽車両)だから、道路交通法が適用される。基本的に車道の路側寄りを左側通行で、1列で走り並んで走行してはならない。夜はライトを点灯。傘をさして乗ってはいけない。ヘッドホンなどで周りの音を遮断して走行してはならない。時速20キロ程度で走行。止まれの標識のある場所では一時停止。信号も守らなくてはならない。 歩行者専用の場所では降りて押さなければならない。
さて、この中でいま一番熱いのは次に挙げるものだ。
既に調べれば分かること(既知の危険)を除外(それを確認するうえで改めて聞くという行為も行なわれる場合もある)し、それを踏まえたうえで他にどのような危険があるか。その危険が現実のものになった場合、どれほどの危険に相当するのか。そして、その危険を防ぐ上でどのようなことをしたら良いのか。そして最初の状況と、対策を行なったうえでのリスクの比較をすること。これをリスクアセスメントという。
このリスクアセスメントであるが、実際にその業務や行為に参加する人が率先して行なう場合と、保険会社が事故率の低下を狙って独自に保険加入者に対して行なうことがある。保険会社としても事故が多ければ加入者に対してお金を払わなければならない。その額が多ければ多いほど保険会社にとっては損失となる。つまりそういうこと。
一番大事なのは、いちいち表示しなければそれが危険であると知ることが可能な状態や状況ではなく、自分自身がその危険に対して敏感になることが最も望ましいのだが、気を抜けばプロでも危険に遭遇することもあるし、事故としてそれが結果となってしまうこともある。
まず、危険な目に遭わない方法としては、知ること。考えること。観察すること。感じること。疑うこと。
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